私は何度も何度も「なつかしい」に戻ってくる。
私にとってこのグループは、純粋にミステリー(神秘)のお祭りなのだ。何が起こるか全く分からないし、どんなブレークスルーが起こるかもわからない。
そのシンプルなプロセスの中で、私は何度も何度も自分自身に帰ってくる。垂直軸に沿って「またここ」「またここ」「またここ」の私に戻ってくる。
わたしは「またここ」に戻ってくる。なぜなら興梠先生が好きだから。もう彼とは90年代半ばから付き合いがある。
わたしは「またここ」に戻ってくる。興梠先生が居るスペースには愛があるから。
わたしは戻ってくる。なぜならそのスペースには詩があるから。それは自然とわたしが求めたり、干渉しないときにやってくるから。
わたしは戻ってくる。なぜならいつも美しい場所で、外に座っておいしい料理を楽しみながら、人々との交流を楽しむことができるから。
わたしは戻ってくる。なぜなら私と一緒に料理されているものがなんであれ、それらは最後には姿が明らかになるから。涙と笑いと共に。
「なつかしい顔」が何であるかはわたしには分からない。
でも「なつかしい顔」が何であるかという問いがそこにあることを許し、その問いについて気にかけすぎないこと、それで十分なのかもしれない。なぜならなつかしいリトリートのスペース全体がその問いに開かれているから。リトリートのスペースには恩寵が私達のハート、私達の光に降り注ぎたがっている。参加したがっている。
わたしは「またここ」に旅をしてくる。なぜならそれは家族のようだから、心の家族のようであり、それは無限の可能性を秘めているように感じるから。そして、この家族の中で、私はホントに自分自身になることができる。そうでなかったら、戻ってこない。
興梠先生は、無条件で、平等主義で、意外で、フレンドリーで、不思議で、生き生きとしていて、彼の顔は驚くほど様々な表情で踊っている。彼の声は深く美しく、ユーモアに溢れている。